父の愛した京大

今日、12月13日は、父、元(はじめ)の25年目の命日。

あの日父は、突然、忽然と、私と母の前で息を止めてしまいました。

私の25歳の誕生日(12月16日)の直前のこと。
初めて、正午の茶事の亭主をさせていただいた日の晩でした。

119番、救急車、処置室、霊安室、解剖…と、母と私は、茶事からの続きの一晩とは思えない、永くて寒い、先の見えない旅を共にしました。

三日後の25歳の誕生日当日は、玉川高島屋で大人の喪服を買いました。
欲しいものを買うのでなく、必要なものを買うことに、シフトした日でした。
そのときに何気無く母が使った高島屋の家族カード…、その喪服は、父から私への最後の誕生日プレゼントとなりました。

毎年繰り返す、父の命日と私の誕生日は、私の中では棗と茶杓のように、セットで取り合わされ続けます。

今年は私が50歳の誕生日、父が氏命(うしのみこと)になって四半世紀が経ちました。

父の享年は62歳ですから、今の私とは干支一回りしか違いません。
薄れかけていた父の感情の色彩が、自分と重なることで、再び、リアルさを持ち始めました。

その父が、京都大学の農学部に在籍していたのは、もう60年も前のこと…

あまり想像したことがなかった父の大学時代。

父の京都好きはかなりのもので、同じくらい強かった「家嫌い」も手伝って、京大進学は合法的家出だったと感じます。在学期間は半端な5年。
きっと帰りたくなかったのでしょう。

我が家の家族旅行は京都、奈良以外はあまり記憶にありません。
子供三人連れで、贅沢な旅ではありませんでした。
ただ、日本の文化遺産の素晴らしさを最初に見せてくれたのは、大抵が父でした。
京都と古美術、とりわけ仏教美術が好きでした。
その意味では、本当に贅沢な旅でした。
当時は気づけませんでしたが…

父の京大在学中の話はあまり聞かなかったけれど、京都には様々な青春のエピソードがあったはず。

誰にも語れないことや、家族には特に語れないことや(笑)、津波のような郷愁も手伝い、京都の良さをハイテンションに自慢(京都は父のものではないので、自慢という言葉を使うのは少し変ですが)ばかりしていました。

お陰様で京都にはご縁で度々訪れます。
訪れるたび、やはり何処かで父を感じます。
南禅寺からインクラインは、特に、すぐ背中に父を感じます。(憑いてきてる…と)

京都は、お茶でも仕事でも、離れたかなと思うと新たなご縁が繋がり、また通います。

今年初めて父の愛した京大へ行きました。
大徳寺の茶会から、一路、京大時計台へ。

時計台のラウンジで、十徳姿の吉森と隣同士、カモミールを飲みながら教授らを待つ時間は、現実と夢の狭間にいるようでした。

父と同じ農学部であり、水の世界でご活躍中の渡邉教授と寶教授にご挨拶できました。
お二人の率いる団体コムアクアさんのお導きで、来春、ブラジルのブラジリアで茶会をする運びとなりました。

初めてなのに、なぜか懐かしさを感じる渡邉先生の優しい目。
どこか、吉森の父、正人(宇宙物理学博士)に風貌が似ている寶先生。
先生方を通じて、私の中で、デッサンだった京大農学部に色彩がつき始めました。

学部や分野を越えて、人が求める真理はひとつなのだと、新しい出会いの度に強く思います。

父の25年祭直前の巡り合わせに、何やら意図的な(私を操る糸的な)タイミングさえ感じてしまいます。

夕暮れ、時計台前の楠の大木が腕(かいな)を開いて立つ姿が見事で、ふと皇居外苑の楠正成公の像の側に立つ大木を思い出しました。
会議所勤務時代は毎日、その下で休みました。
修行中の安息タイムが、楠のイメージでしたが、父も楠の下で何を思っていたのでしょう。

このご縁もお茶から始まり、水が繋いでくれたご縁。
世界へ繋がるご縁、いえ、世界が繋がるご縁、です。
誠に、道縁は無窮。

世界水フォーラムに向けて、初めの(元の)一歩を、京大の時計台から初めました。

事務局の河合美奈子さん、その情熱の熱量と、明るさの光度で、行く末を照らしてくださりありがとうございます。
きっとこれから先、素晴らしい協力者に巡り会う旅になるでしょう。

明後日、青山の父の墓前に報告いたします。

(明後日は吉森正人父の方の命日なのですが…、、一年で一番忙しい時期に生まれたり昇天したり、お騒がせして本当にすみません。
マイペースな家族を代表して陳謝いたします。
というか、私が誰かに謝られたいです。(笑)
16日の誕生日は、稽古日です。
免許更新や健康診断や保険の起算日など、誕生日を起点にする習慣、止めて欲しいと思う師走生まれ。12月は誰しも日数が、足りないでしょうが、師走生まれに免じて、せめて一月か二月から数日、前借り制度がないものでしょうか。
看々臘月尽…)