東西訪問記 ~吉野太夫の桜紅葉~

~吉野太夫の桜紅葉~

京都二日目は鷹峯を散歩

鷹峯ハーベストホテルは
あらゆる場所から鷹峯と鷲ヶ峰の
絶景を臨むように設計されている

スロープカーからも
真正面に鷹峯を見晴らす
まずは吉野太夫寄進の朱塗門のある常照寺へ

南無妙法蓮華経の文字が滑らかに舞う石柱
こぼれ萩が結び葉となり
黄蝶、白蝶が秋を惜しみ舞い飛ぶ奥へ進むと
木漏れ日を浴びて吉野門が佇む
前後の緑は古木の桜
幹は虚になり
桜紅葉もその数は少なく
かえって緋色を際立たせている

一枚拾った柿紅葉は漆塗のよう
唐三彩の紋様はおおらかで
暖かで優しい吉野の人柄と重なる

拝観料を納めて歩を進めた境内は
ひと気なくただ本堂に有馬頼底和尚の声?
吉野忌のビデオが繰り返し流れていた

畳は古くやや痒い‥‥
枯山水や墓所も木葉が重なり
生け花教室の張り紙の先に
床の間に薄板のみ置かれ
花入も花もない様子は侘しい
見てよいのか見ぬべき場所か迷いつつ‥‥
ここは春が本番の寺なのだと合点する

庭園の奥の墓所を進み
枯れ葉に覆われた遺芳庵にしばし佇む
土間の立礼には石炉と丸窓
侘びた吊り棚と腰掛けがあり
きっと、磨けばきっと
居心地よいおうちカフェに‥‥
まさに二人だけの為の空間

この常照寺に土地を寄進し
開山に日乾を招いた光悦は
数百年後にも人を引き寄せる工夫をした

吉野太夫に
日乾上人への帰依を奨めたのも光悦

吉野が朱塗り門を寄進したのはまだ郭にいる
二十代前半の頃‥‥
どれほど話題になったかしら

実際の出資は光悦か灰屋か
いずれにしても山門寄進で
さらなる名を上げ熱心な法華宗となった吉野
女人成仏のシンボルになった

吉野の本名は松田徳子
きっと本人も平家物語の徳子に
シンパシーを感じていた筈

本阿弥家も松田姓、田中姓だったとか
辿れば親戚関係が存在していたのかな

吉野といえば近衛信尋と灰屋紹益が身請けを争ったと持て囃されるけれど‥‥
これもプロデューサーがいらしたか

近衛家も前久や信尹と、つい先代は戦国乱世
摂関家の存続や命も危ぶまれた時代

皇子だった信尋当人も関白は引いたとはいえ
まだ公武合体の津波の最中

実兄である後水尾天皇の突然の譲位を
事前に聞かされてもいなかったショック
そこから救ってくれたのも
吉野の蟹杯かも知れないけれど
光悦&灰屋チームに太刀打ちできたかは
初めから怪しい

吉野門も身請け争いも
光悦伯父貴のプロモーションか‥‥

ちなみに吉野太夫の最初の源氏名は
浮舟だったことを忘れてはいけない
源氏物語の浮舟といえば
貴公子二人の狭間に揺れる姫君の物語

鷹峯リゾートを新天地として 
ポスト男山(石清水八幡宮)の新リゾートを
豪商や町衆や女人へと
ダイバーシティにプロデュースしたのは
意図してなのか‥‥
真意を聞きに光悦寺に向かいましょう(笑)

吉野・徳子さんのお墓は近代作られ
墓所というより記念碑が相応しいが
いまもその遺芳を放ち
東西南北から人を誘う

吉野礼賛は時代を越えて
受け継がれて行く